2007年9月14日金曜日

ちょっと得をしたなと思ったこと。

この前に発表されたipodのラインナップで、ipod shuffleだけが仕様を変更せず、好きな色がなくなったこと。

前のspring greenっぽい緑色が良かったのだ!

いやはや…得した…か??(^^;)


今日は迷える子羊に、地獄行きを宣言してしまったような日かも。
その宣言しなかったら、こっちが地獄行きだったと思うが。
人の気持ちが分からなくても、自分がやられたら嫌だと思うことは
他人にしてはいけませんねという話です。そういう理屈が通じない
世代に移り変わっていったのか、それともいつの時代にもそのような人間
がいるものなのか。

宇宙戦争という100年も前の、SF小説を読み返していると、
その時代でもやっぱり利己的な人間はいるものですね。生物単体として
必要な欲求からくるものかのかもしれないが、社会性を尊ぶ動物としては
どうだろうなぁ??と。犬のようにピラミッド的な軍事体制が社会機能として
優ているなんて極論には賛同などとうていできないが。

他人を思いやるって事は、誰かがやらなきゃだめなことじゃなくて、
それぞれの人間がやらなきゃいけないことなんだよな。

価値観の違いっていうのは致命的なもんですね。

2007年9月13日木曜日

暇を見つけて、お役立ちソフト開発決定!!!!

というわけで、ソフトウェア開発を、片手間でしてしまおうという企画、第一段です。

いままで便利なソフトって難しいよなって考えていました。

んなことないです。


例えば、愛猫がPCに向かっているときによってきて、キーボードを叩き始めたら??
こういう時には次の二つの製品が役に立ちます。

キーボードロッカー::専用ロックボタンがついているキーボード(市販されていません!!)。猫がきたら押す。そうするとキー入力を受け付けない。絶対ネーミングとデザインで売れる事間違いないキーボードだ!!

キーボードロッカー::ソフトウェア。画面上のボタンを押すだけで、キー入力が無効となり、マウスしか働かないようなソフトウェア。

この二番目のソフトウェアをWindowsだけでなく、Macでも、linuxでもうごくようにすればいいさ!!

pythonでかけるし!!(たぶん)

wxpythonでGUI部品かけばいいさ!!(きっと大丈夫)

そして、出来たスクリプトを公開して、あとはpythonとwxpythonのインストールの仕方を送付しておけば良い!!!ダウンロードしてクリックだけなら、きっと大丈夫!!


すげぇ〜俺!


でも、いつつくるんだろう???
結構難しいですよ〜

2007年9月12日水曜日

ちょっと秋めいてきましたね。風が心地よいです。そして、眠いです(^^;) もう既に眠たいです…。

2007年9月11日火曜日

やはり、猫は

猫好きとして、究極の願望といえば、「猫と住む」である。

なぜ、「猫と住む」のを願望とするのか、それは猫がそばにいる事を考えただけで幸せになるのならば、更なる幸せが待っているに違いないからである。

猫を飼うって事を考えたことがある人は、この世に幾千万もいるだろう。猫が嫌い、猫アレルギー持ちならば、考えたくないことかもしれないのだから、少なめに見積もってみた。猫を飼うって事は本当に猫にとって幸福なのか考えさせられることが、昔あった。

ある夜、アパートに帰る道すがら、猫の鳴き声がした。交差点近くの草むらで。白い服を来た女性が気になるのかチラと見て去って行った。その時、僕は猫と目があってしまった。

「にゃー、にゃー」とか細い声で懸命に鳴く猫。ちょっと痩せぎみで、歩くのもヨロヨロとしていた。子猫?かな?と眺め入っていると、歩道に降りてきたそうにしているが、車のすごい音で怖くて降りれないらしい。飼うことは出来ない。可愛そうだけど、今の僕には縁が無いよなと、歩き始めた。すると、猫も同じ方向に歩いていくではないか!!

僕が行く先にはもっと大きい交差点がある。車のとおりは激しく、歩き渡るまでに1、2分ほどかかるほど、でかい道路だ。このままでは猫が引かれてしまう。そう思った僕は歩みを止めた。そうするとその猫も止まって、鳴き出す。

何とか猫をまこうと、先に進んだり、戻ったり。それでも懸命についてくる。猫と僕の距離が近くなったとき、猫が僕の足に触れようとしてきた。触れたら本当にずっとついてきてしまう!やむなく車道を突っ切った。そうすると猫は動けないのか立ち止まったままだった。

その日以降、その猫に付きまとわれる日が続いた。家にまではこなかったけど、周囲の人の援助もあるのか、餌をもらっているらしい。僕もついついあげてしまった。だって僕を見分けるんだもんね。

そして、猫の里親を探すハメにまで深入りしてしまった。もちろん無事に見つかって、今では元気に暮らしているらしい。ちゃんとお子さんがいる夫婦持ちで、奥さんが猫が好きだそうだ。


猫の里親を探していたときは、まるでかわりに就職活動をしているような気分だった。首輪が鳴く、人懐っこく、痩せていて、木に登れない、土の上よりコンクリートを好む。これはどー見ても飼い猫だった証拠だ。飼い猫だったゆえに、野性猫として生きる手段を身につける術を失った。この猫が生きる術は、飼い主が見つかること以外は無かった。無事里親が見つかったときは、自分の事のように喜んだ。だって、あれだけ悩んだのだから。捨てられたのか、迷い猫になったのかは分からないけれど。そして里親の方に深く感謝しています。

人間も同じだと思う。生活する手段が奪われるのは。例えば専業主婦になってしまえば、楽だと世間では言われるかもしれない。逆に家に囲われることで、家事にとらわれることで、日々変わる世間の細かい様相の変化や、常識の変化などにふれる機会が失われるからだ。例えば子供が過保護に育てられるとかも同じだろう。大切にされること、危険から守られることって、ある意味、自衛手段や生活手段や哲学を自分から会得する機会から遠ざかるという事にはならないだろうか? 

だから、「猫を飼う」事にためらいを同時に感じてしまう。将来捨てるとかそういう事ではなくて、生涯看取ってやれば良いという事ではなくて。人間に庇護されるのを猫は本当に望んでいるのだろうか? 猫を飼う事自体が、人間の一方的なエゴイズムなのではないだろうか?

昔だったら、猫エイズなんてものは無かったんだろう。平気で自宅付近で放し飼いにしていて、付近の家屋を鼠やゴキブリなどの伝染病介在する可能性のある動物を排除するのに役立ってきたのだから。益獣であったのは昔のこと。科学の発展や文化の発展により、猫が直接役に立つことが無くなったし、お互いが厳密過ぎる所有権を主張するが所以に飼い猫は屋内に追いやられた。

でも、これは人間の都合なんだよね。野良猫がいるのも、元々からいる環境だからというよりは、捨て猫の方が実際多い。猫エイズの大元は人間のせいかどうかは分からないけど。

猫が好きな故に、悩ましいんです。

でも、やっぱり、飼いたいのですけどね。